
西 川 口 へ よ う こ そ ! ◆女性を取材(サンケイスポーツ紙上でも掲載)したお店の紹介です |
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『西川口淑女館』
・業種 / 淑女専門デリヘル |
まだ東北本線にSLが走っていた子供の頃、汽車に乗ってだんだんと東京が近付いて来たともなると、 何となくそわそわし始めたものだ。 まだ荒川の手前で、田園地帯だったはずの西川口を通り過ぎてやがて建物が連なりだした地帯に差し掛かると、 いずれ姿を現すはずの『お化け煙突』を見逃すまいと、じっと窓の外の風景を追っていたものだ。 その頃のことだから背の高いビルはなく、空に聳えるようにたっていた5本の煙突があり、 それが見る角度によって5本や4本、3本や2本に見えたり、1本だけになっちゃったりってのが一種の名物みたいなものになっていたのだ。
煙突は鋳物鉄を溶かす溶鉱炉の煙突。
その炉のことを「キューポラ」っていうんだけど、いずれにしても灰色のトタン屋根の鋳物工場群だったのだ。
早船ちよの筆による雑誌『母と子』に『キューポラのある街』が連載された出したのが昭和34年。
でも『キューポラ』という名前を一躍有名にしたのは、何といっても吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』だ。
◆『西川口流』は未だ記憶の中に
さて、時代はずっと後になって、ある年齢層がぱっと頭に浮かべてしまうのが『西川口流』という言葉と歓楽街のイメージ。
要するに、こっそりと本番をさせてくれちゃうサロン(本サロ)ってことなんだけど、まずはサロンのルーツを辿っていくと、
1950年・大阪ミナミに開店した『大劇サロン』ってことになるらしい(ここからの情報は現代風俗研究所著、
2003年(株)データハウス刊『日本風俗業大全』による)。
『アルサロ』といって、アルコールではなく「アルバイト」の略でアルサロなんだけど、
その頃アルバイト(素人)の女の子が酒を飲みながら話相手になってくれるっていうのは珍しく、流行って全国に広がった。
同じ頃、大阪千日前に登場した『ユメノクニ』では、ホステスが客の膝にハンカチをかけ、やがて彼女の指が股間で蠢き出すってなことに。
同じ経営者が東京に出した店では看護婦姿の女性が。
それから銀座には『未亡人サロン』(戦後のことで何かと未亡人が社会問題化していた頃)とか、
『軍国キャバレー』とかも出来たとか(まだ従軍慰安婦とか問題にならなかった頃)。
その『アルサロ』がやがてハッテンして『ピンサロ』に。
今までの股間の上からくすぐる程度だったのが、堂々と手コキになる。
1969年には五反田で「花びら回転」(女性が入れ替わってサービス)が誕生。
川崎で採算あわなくてすぐ廃止されたけど「二輪車」(2人で相手)も出来た。
その後、ぼったくり店が横行、或いは入ってみたところが超熟女店だったりで一時ピンサロも下火になったけど、
そういう反省から90年代には明朗会計を打ち出す店が出来てきたり全裸でサービスしたり、
フェラチオでヌいてくれる店なんかも増えだした(今じゃピンサロっていうと口でってのが当たり前になっちゃってるけど)。
『本サロ』は着物のまま裾をめくり、ソファーに座る客の膝に跨ってドッキングするという店で、
東京中野で誕生したのが始まりらしいけど、その後は吉祥寺、蒲田、川崎他にも見られるようになる。
赤羽、西川口にも登場して繁盛したけど、赤羽は摘発を受けて西川口に店が移転してゆき、
オイルショック後の不況で遠のいていた客足も戻ってきて、90年代には脚光を浴びるように。
熟女が多かった本サロだったけど、若い娘も多く入ってくるようになって隆盛を極める。
その頃ともなると、ソファーの上だけではなくシャワー付きの個室で前戯もありのプレイが出来る店も珍しくなくなった。
ただ、その頃の風潮として暗黙の了解みたいなものがあったとしても、違法だから本番が出来るサロンですよ
なんて堂々と宣伝出来るはずがない。
それで、西川口といったらそういう店が圧倒的に多くなっていたから、その頃まだ発行していたほとんど風俗新聞
といっても過言ではなかった『内外タイムス』とかの新聞が、本番暗示っていうより記号で知らしめるみたいに
『西川口流』と表記するようになった。
西川口の店じゃなくたって「本番アリ」を知らしめるために、うちは『西川口流』ですよって表記するまでに。
2003年、石原慎太郎都知事が2016年オリンピック招致を提唱。
そして広島の方で風俗店摘発に猛威を振るった、確か警察署長だったか警察関係だったTという人を副知事に招いて
「歌舞伎町浄化作戦』を開始。
歌舞伎町の違法店(一部を除き、ほとんどのハコヘルが違法店だった)を次々と摘発。
その波が他にも広がって、例えば横浜は黄金町の「ちょんの間」で有名だった地帯を絶滅に追い込んだり、
その波は女性知事だった埼玉にも早々及んで、あれほど誇った西川口流も絶滅の憂き目にあってしまった
(2005年頃にほぼ消滅、2010年頃になると隠れて営業していた店もほとんど姿を消した)。
当時の西川口を知っている人は、その隆盛振り、街全体が風俗店街ってな印象持っていたかもしれない。
駅降りて西口に降りると、駅前の広場の右方向「西川口一番街」に僅かな飲み屋などの塊があって
(駅すぐ横には交番もあったし今もあるけど)、その先一帯が昔からあるソープランド・ヘルス地帯
(もちろん風営法改正前から許可とっていた、およそ15〜16軒か)、そしてその向こうに「東横INN」とラブホが2〜3軒。
このソープ街手前辺りにもピンサロいっぱいあったし(今はリラクゼーションとかの看板が多い)、
西口左側はむしろこっちがピンサロ地帯だよって主張してるように思えたほどいっぱいあったし、
駅の反対側東口降りて左方向へ行く道の両側にもピンサロがいっぱいってな印象だった。
そりゃその頃、規制なんてゆるかったし、道の両側が呼び込みのお兄ちゃんでいっぱいで、
それはそれは猥雑感たっぷりってな感じではあったな。
この道の向こう方向に家がある女の人や子供はちょっと通りづらかっただろうなってその頃でも思ったくらい。
取り締まりが激しくなるって情報が流れた頃、何回か取材したことのあるソープランドを尋ねたことがあったけど、
面白いことにうちも許可こそとってある店だけど、広告出すのを自粛したり、へんに目をつけられたりしないよう
店員に店の前の道路はもちろん、その周辺までいろいろ掃除したりして良い印象を持たれるようにっていうんで
ボランティアみたいなことやりだした時期もあったんだよね。
取締りの後、そのピンサロ街真っ只中や近辺で商売をしていた一般商店に取材に行ったライターに付き合って
店の人からいろいろ話を聞かせてもらったけど、商品を入れ替えたりして努力はしているものの、
そんなの焼け石に水だろうなって思ったのがホントのところ。
実際、道ずれになって閉めていった店はいっぱいあったと思うよ。
で、その辺り、その後どうなっかというと、取り締まり後当初はその浄化運動を支えていた住民なんかの
人達が芸術の街にして人を呼ぶとか喧々諤々話あっていたみたいだけど、結局はどこも似たり寄ったりで、
空き商店スペース、空き部屋に外国人(特に中国人や韓国人、タイ人、フィリピンなどの東南アジア系がほとんど)が
いっぱい住み着いてきて別の悩みに。
もっとも、いろんな国の料理が食べられたり、多国籍の雑貨が手に入ったり、結婚してる女性とか子供とかには
まだ外国人との付き合いが慣れていなくて、恐いってイメージを持っいるのか向かない人もいるかも知れないけど、
独身男性なんかだとかえって住んで面白くなった街だと言う人も。
家賃も他地域より安いみたいだし。
でも、この街が風俗のメッカだった痕跡を示しているような掲示板が、駅前にあるんだよねぇ。 ソープやラブホはいっぱい残ってるけど、当時の街のイメージがよほど嫌だったのか、 駅周辺でのデリヘルの待ち合わせを念頭に置いたのだろう、街の案内図かと思ってよく見たら、 何と『待ち合わせ禁止区域』なんて地図の入った掲示板だったよ。
◆西川口駅について
川口駅は、埼玉県内の京浜東北線の駅のうちでも明治43年(1910年)開設で4番目に古いんだけども、
西川口駅が開設されたのは昭和29年と新しい。
田園地帯だったところに出来た街で、当初は戸田市、蕨市、川口市北部の通勤駅として発展していったんだけど、
そういう土地柄だからさして紹介するような名所旧跡なんてない。
名所ではないけど、駅東口のずっと先には「オートレース場(川口オートレース場)」がある。
レース場へ行くバスも出ているけど、ゆっくり散歩するつもりなら歩いて行けなくもない。
辺り一帯は、開催日でなくても練習音がかなり激しく、そのためその近くにある「青木中学校」の校舎は
防音・空調設備が完備した校舎になっているとのこと。
京浜東北線側からオートレース場に行くにはバスに乗るにしろ、ここ西川口が拠点。
レース開催日には駅周辺もなんとなくザワつくのだ。
レース場を越して川(竪川)を渡り、もう「鳩ヶ谷」に近い方まで行くと、その辺り一帯がかつての 「釣竿工場地帯」だったとのこと。 幕末の頃、この地に産する布袋竹を加工して江戸に出荷したのが始まりで、明治に入ってからは継ぎ竿技術が伝わり、 国内向けだけではなく輸出も盛んになって、一時は工場も200を数えるほどまでになったとか。 でも昭和20年代に入って、グラスファイバー竿が出はじまるようになってから衰退してしまい、 今はその面影も感じられなくなっている。
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※参考にさせてもらった文献
・広瀬瑛『京浜東北線歴史散歩』(鷹書房 / 昭和62年刊
・逢坂まさよし『首都圏住みたくない街』(駒草出版 / 2017年刊)
・現代風俗研究所、深笛義也監修『日本風俗業大全 - 欲望の半世紀』(データハウス / 2003年刊)