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「元気にイコう!」
かなまら祭 川崎堀の内から金山神社まで歩いてみた  川崎の堀の内(※1)から、京急川崎大師駅近くにある金山神社まで歩いてみた。 金山神社(昔は"かなまら神社"(※2)と言った、場所も現在の社の近くだが別の場所にあったみたいだ)と言えば、 江戸時代には川崎宿の堀の内の女郎(飯盛女(※3))さん達が、下の病気に罹らないようにとか息災であるようにとか 密かにお参りに足を運んだと言われている神社だ。
 京成大師線に乗れば、川崎から3つ目の駅が川崎大師駅。 歩けばけっこうな距離なんだろうなと覚悟していたけど、普通に歩いて何と20分強で着いてしまった。 昔は道が舗装されていたわけもないし、女性の平均身長も150cm以下と小柄だったから、 もう少し時間がかかったのではないかとは思うものの、これならそう構えずとも行こうと思えばいつだって行くことが出来たのではないだろうか。吉原なんかだと、女郎さんの位にもよるんだろうけど、 昼見せと夜見せというのがあって、その間の2時間ぐらい自由が利く時間があったという。 なら堀の内もそういう時間が取れたのか取れなかったのかはわからないけど、あえて休みなんか取らなくても (休みなんて取れなかったとは思うけど)、何とかなりそうな距離ではあったのだ。
 でも、このコースの散歩はぜったいに薦めません。念のため。 だって昔はどんな道・道順だったかなんて知りませんけど、少なくとも何処までも長閑な畑・田んぼ道だったり 雑木林沿いの道であったりしたのでしょうが、今は堀の内を出て川崎競馬場の塀沿いの道を抜けてしまうと (そこから線路と平行に走る道にでた)、後は何処までも何処までも、何処をどう見回し見渡しても大きな工場とその敷地ばかり。 これほど殺風景な道、犬だってこんなとこ散歩するのはヤダって駄々こねるに違いありません。

金山神社って普段はどんな感じ  川崎方面から上記のように歩いてくれば、京急川崎大師駅前広場の手前、端のところにある公衆トイレなんかで一息ついて、 そこからすぐ右にある交差点を渡れば、もうすぐ先が目当ての神社となります。 川崎方面から電車で来た人は、駅舎を出ると土産物屋が連なっている左の方の道へ行きたくなっちゃうと思うんですが、 そっちへ行くとそれこそ川崎大師。電車で来た人は、あくまで駅前から右の方に見える交差点を渡ってすぐのところが目的地ですから、お間違いのないように。
 で、間違わずに神社らしいところをすぐ見つけたとしても、でもでも時間によっては、アレッなんて一瞬焦っちゃうはず。 だって最初に目に飛び込んでくるのは、神社の敷地内、境内にある幼稚園舎と園児達の姿かも知れないんだから。 まして若宮神宮ってな表示しか目にとまらなかった人なんかは、これはぜったいに違うなんて早とちりして帰っちゃうかも。 祭の日なら、駅からこの辺りまで人がウヨウヨしているから、間違うことはないんだけど。
 さて幼稚園の入り口側ではなく、その先の鳥居を潜り、石畳をまっすぐ進んで正面の若宮神宮の本殿・拝殿に突き当たったとしても、 何処が金山神社なんだってまだまだ不安に思う人も。 とりあえずそこでお参りするしない、賽銭を入れるケチるは自由。 それより、ここまで来て踵を返してしまったなんて、そりゃ可哀想ってなもんなんで言っておくんだけど、とりあえず左の方に目を向けてみましょう。 まだわからないという人は、もう少し左奥の方へ分け入って何やら小さな建物がある方まで足を進めちゃいましょう。 すると黒光りした大きなチンポ(1メートル前後)が認められてようやくホッとするはずです。 ああ、やっぱり間違いなかった...って。
 そう、金山神社は、若宮八幡宮の境内の正面から見て左奥に、間借りしているような感じで佇んでいる小さな社なんです。 その他にも、藤森稲荷神社、厳島神社、大鷲神社が間借り(祀られている)しているから、そう肩身の狭い思いはせずとも済んでいると思うけど。
 でも社こそ間借りしている分、狭い、小さいけど、訪れる人達、性の文化に興味ある人達など、知名度から言えば全国区、国際級。 商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結び・夫婦和合のご利益があるのはもちろん、近年ではエイズ除け・治癒のご利益もあると。
 実際、その日も遠くからマイクロバスでやって来たらしい十数人の団体客(年配のグループ、おじさんもいたけど、目立っていたのは元気のイイおばさん達)がいて、 キャっきゃキャっきゃと騒いでおりました。 何しろチンポ石はまだ他にもあって触り放題、それと小さな絵馬殿があってその通路の真ん中には30cm位の鉄製のチンポが設えられているだけではなく、 女の人がそれを跨ぐと子宝が授かるとか言われているから(当然その時はおばさん達が嬉々として跨いでいましたけど、祭の日なんかだと小さい女の子が嬉しそうに跨いだりして可愛いんです)、 競ってパフォーマンスしたくなっちゃうというわけなんです。 まあ、その日の私はといえば、一人で行ったので、園児達が休み時間にカクレンボをしていて、愛らしい顔をした女の子がチンポ石の裏に隠れて、 「ま〜だだよ」とか「もうイクよ」とか言いながら遊んでいる光景を想像したりしていたのですが。
 ところで、拝殿までの石畳の右側は、お守りやお札が並んでいる受付窓口などがある社務所になっています。 ここの2階に、江戸時代の海苔業に使用したあらゆる道具・文献が展示してある「若宮郷土資料館」(※4)があって、さらにその奥に性にまつわる数々の資料が展示されてある「金山神社資料館」(※5)があります。 いつでも公開しているというわけではないので、見学したい人はきちんとその目的を伝えて、中に案内してもらいましょう。 普段は窓口の所に人がいないことの方が多いですから、中に向かって声をかける必要があります。

どんな人達が訪れるのかな!  さて、祭の日です。 毎年、4月の第一日曜日に行われるのですが、年によって季節の移ろいにもズレがありますから一概には言えないのですが、 概ね桜の開花とぶつかることが多く、境内の満開の桜によって、より華やかに彩られてますます心が浮き立ってきたりします。
 祭の開始は11時、神輿が街に出て行くのは13時ですが、この日は朝から京成大師線もいつもとは様相が違って乗客がいっぱい。 それも外国人の姿がやたら大勢見受けられますから、そこから先は皆の流れについていけばいやでも祭の現場、 金山神社(若宮神宮)に辿り着いてしまうから何の心配もいりません。
 ところで、その外国人ですが、これはアジア系の人たちよりもアメリカ系の黒人・白人の方が圧倒的に目立ちます。 だいたいが3人から6人ぐらいのグループだったり、男女の数も半々かむしろ女の人の方が多いようにさえ思えるくらい。 とにかく、大勢で押しかけてきて、楽しそうにキャッキャって騒いでいるわけです。
 そもそもが、この祭りは、以前は一般にはあまり知られていませんでした。 NHKのニュースで取り上げられるはずもないし、新聞ですらほとんど報道されるなんてことはなかったのではないでしょうか (私の知っている限りでは、かろうじてサンスポ、東スポが報道。他紙は、報道しなかったというより、祭の存在そのものを知らなかった可能性もあるかも)。 但し、日本で発行している英字新聞、進駐軍向け英字新聞なんかでは日本の文化というか、奇妙な祭りとして、 面白がって取り上げられていたし、祭の日にちなども予め告知されてもいたのでしょう。 そのおかげで、米軍関係の人達が大勢見に来ていたというのが本当のところのようです。 以前は、約6割は外国人だった、そのほとんどがアメリカ人だったとのことです。 もっとも10年余前だったか、この祭り見に訪れた時には、イギリスとカナダのTVが取材に来ていました (どこの国のクルーかは、宮司さんに聞いたのですが)。 ということは、あながちアメリカばかりとは言えないのですが。 但し、当然ながら、日本のTV局なんかは取材したところで放映が出来ないでしょうしから、地元の局はともかく、姿を見かけたということはありませんでした。 もちろん、その前に祭そのものを知らなかった社、担当もいるということも当然考えられるのですが。
 でも、今は外国人の数こそ減ってはいないし相変わらず多いは多いのですが、この祭りに訪れる人は、日本人の比率の方がずっと多くなってまいりました。 というより、ネットが普及するにつれ、祭りの存在そのものが知れ渡るようになって、その分日本人の数が格段に増えてきたということでしょう。 境内の出店をひやかし歩き回っても、以前は今のように満員電車の中を掻き分けて歩くみたいな混雑はなかったし、神輿が神社の境内から出てくるのをカメラを手に待ち受けている人たちが、 道路遥か先の歩道まで占領してしまうなんてこともありませんでした。 これは、間違いなくインターネットの普及によるものといっても間違いはないようです。
 でもね、いずれにしろ、外人さんも日本の女の子達もグループで来てたりして、みんなハイになっていて、それはそれは賑やか。 感じとしては男よりむしろ女の方が数が多いんじゃないかってな印象を持ってしまうくらい。 嬉しい限りではあります。

祭りが始まる前の境内  祭りそのものよりも、いくら混雑していようが境内の出店を歩いて覗き回っている方が楽しいと言う人も多いかと思います。 ビールや酒を飲んだり、焼き鳥やヤキソバを食べたりだけだって、けっこう楽しいし...。
 それはともかく、周りという周りにはチンポとマンコが溢れ返っているってな雰囲気。 狭い境内に張り巡らされたテントの机の上には、それぞれの店の趣向で、それこそ大小のチンポの陶器、マンコの器から、金属製のそれ、 チンまんストラップ、四十八手が記されている布切れや、性に、エッチに、スケベに関連のある飾り物とかがずらりと並んでいて壮観。 チンポ型の徳利もイイし、マンコの餅も美味しそう。 巨根から子供並みの大きさのチンコ飴(子宝飴とも)やマンコ飴も...。 で、女の子達が、あちこちでそれを楽しそうにペロペロと舐めていたり...。
 でも、そういや以前はチンポ飴を嬉しそうに舐めていたのは、外国の女の娘達ばかりだったっけ。 それこそハリウッド映画に出てきてもおかしくないような可愛い娘から、100kgどころか量りに乗ったら間違いなく針が3回りぐらいしそうなほどの巨漢白人女や、 無駄に腰を振り続ける黒人女まで、それはそれは嬉々として競ってチンポ飴を舐めてはその卑猥ぶりを見せびらかしあったりしていた。 だけど日本の女の子は、みんな恥ずかしそうに手に持ってニコニコキャッキャとか言ってるだけだったな。 時にぺろりとやってみせる娘もいたけれど、如何せんその後で照れ隠しに必死、勝手に焦り巻くって顔中赤くしてしまったり...。 でもね、そこへイクと、今の女の子達は平気みたいです。 いや、平気っていうより、実にイヤらしくねっとりと舐めまわしたり出し入れしてみせたり、おい、ベッドの上でもそのくらい熱心に舐めろよってつい言いたくなってしまうくらい、 恥ずかしがってる娘なんかいやしない。 ノムさん並みにボヤキたくなるの通り越して、頼もしく感じてしまったくらい。 まあ、いつの間にか、世の中、確実に変わっていたということなんでしょう。
 というわけで、今や外国の女、日本の女、それからカップルや赤ん坊から幼子連れの夫婦、小学生、中学生の女の子、それにゲイかゲイの予備軍かは知らないけど学生っぽい男組とかが、 競ってチンポ飴を舐めあっている光景がそこら中で見られるというわけです。
 ところで、そうした出店は毎年ほとんど変わっていないようです。 チンポなどをデザインしたタオルを売っている女性グループの人達が何年か前から加わった以外、ほとんど変動はないんじゃないかと思います。 何年か前に一人木の下に茣蓙を敷いて、各地の性の祭りとか陰陽石とかを撮り歩いて写真にしたものを、文庫本にして売っていた人(写真家)がいたけど、 2年ぐらいで来るのをやめたみたいです。 でもそれ以外は、まずいつも変わらない光景が繰り広げられているといってもいいでしょう。
 境内の人だかりが一番激しいところでは、巨大な木製のチンポが設えてあって、そのチンポに登って、可愛い娘、あんまり可愛くない娘、受けたがっているおばさんやエロそうだったり可愛かったりの白人女、 愛嬌のある黒人女や細いのから横綱級の外人女、それに5、6歳の女の子からよせばいいのにちょい禿げオヤジまで、代わる代わるチンポ台の上に乗ってはしがみついたりVサインして見せながら、 みんなで囲んで、知り合い知り合いじゃない関係なくワイワイ写真を録りあっている、なんて光景も毎年繰り広げられるものです。
 境内の真ん中辺りの樹木の下に茣蓙を敷いて、奉納用に大根を男根型に掘るコーナーも設置されているんだけど、こういうのに積極的に参加していたのがかつては外人さんばっかりだったけど、 今はチンポ台に乗って写真撮りと同様、逞しくなった日本の女の娘達を大勢確認することが出来ます。
 それから、祭が始まる前にいつも見かけられる光景を記し忘れるところでした。 境内拝殿近くの社務所の前に、朝から神輿が3基スタンバイされています。 どれもチンポの神輿なんですが、そのうちの一つ、ピンクの張りぼてのでっかいチンポ神輿では、神輿に参加する女装クラブ「エリザベス」の女装者とツーショット、 或いはスリーショット撮影してもおうという人達で、大混雑。 撮影NGの女装っ子さんもいれば、そのうちの何人かは顔出し撮影もOKっていう猛者っていうか、サービス精神が溢れ出ちゃっている女装っ子さんなんかもいたりして、 代わる代わる神輿の台座に乗ったり乗られたりで大忙し。
 神輿やエリザベスについてはまた後で、神輿が出発してから記すことにして、ともかくも最近の境内は人で溢れて、いろいろと見て回ろうにも大変なことになっちゃっているんです。
 拝殿の周りには、お祭に参加する巫女さん装束の幼い女の子が待機したりしていて、これは可愛い、お薦めはこっちかな、なんてね。

午前11時、やっと祭が始まりました  といっても、神輿が繰り出していくのはまだずっと先のこと。 宮司さん始め、神社、祭の関係者が何やら始めたのを、いつでも参加していなきゃ気が済まないってな風情の人達がぐるりとその周りを取り囲んでいるので、 ここは祭の手順だけを簡単に。

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◆11:00〜11:15ぐらい
 御火取祭(火打石で火を切り出し「篝火」に点火して、いよいよお祭の始まりってことです)

◆11:15〜11:45ぐらい
 例祭(神前にて祭事が執り行われる。式後、お神酒(濁り酒)と煮干が振舞われるとのこと。縁起物らしい)

◆11:45〜12:00
 神輿御霊入れ式(かなまら大神輿、かなまら舟神輿、エリザベス神輿に御霊を入れるということです)

◆12:00〜12:30ぐらい
 大根削り(かなまら講有志による大根削り。神前に供える男形、女形を作る。要するに大根でチンポ、マンコを作るってわけです)

◆13:00〜面掛行列
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 となるわけですが、この一連の儀式は、考えてみれば私はほとんど見ておりません。 取り囲んでいる人達が大勢過ぎてどうせ人の頭しか見えないし、長い時間、何となく神妙にしていなければならないような気がするし、 それに煙草を吸うことが出来ません。 ですので、これはネット情報などを参考にさせてもらっています。
 ところで、大根をチンポにしてお供えするというのは、日本全国各地にあります。 堂々と白日のもと、白いチンポを天にかざしてみたりするものから、聞かなちゃわからないものまで (例えば、私の住まいの近くで行われる祭でいえば、中井御霊神社の「おびしゃ祭」って弓を射る祭があるのですが、 社の中、神前に大根で作った陽物が供えられているのですが、関係者はともかくただ祭を見に来た見物人では気が付かないはずです)。 こういう文化、もちょっと大切にしたいなって思ってるんですがいかがなものでしょうか。
 それはさておき、いよいよ神輿が街へ繰り出していきます。 どういう並びで行列は構成されているかというと、正直見ただけではよくわかりませんので、若宮神宮のWebサイトの中から拝借。

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金棒 → 若宮祭祀舞 → 道中奉行 → 川崎古式消防記念会 →  大麻(おおぬさ) → 塩撒き → 猿田彦 → 神官 → 御神酒(振る舞い酒) →  総代 → 来賓 → 参加者 → かなまら講 → エリザベス神輿 →  舟神輿 → かなまら神輿
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 記憶では、舟神輿の方がエリザベス神輿より先だったような気がするし、もっと前は、かなまら神輿が先で、 エリザベス神輿は最後だったような気もするんだけど...、まあ、いいか。
 それはともかく、エリザベス神輿の派手さが際立ってしまっているから、他のものがみんな前座、引き立て役に見えてしまう。 神輿もピンク色の張りぼてのチンポ型で派手なら、担ぎ手は当然ながら女装クラブ「エリザベス」の女装っ子サン達だから目立つ、 それに掛け声だって「ワッショイ!ワッショイ!」ではなく、「ま〜ら、ま〜ら、デッカイま〜ら!」なんだから。
 「かなまら神輿」はもともとの一番古いものなんだけど、木製でやや小さめのチンポはいいとして、祠(屋根付き)に収まっているからわかりづらい。 日立造船が奉納した黒光りのチンポ神輿も屋根付きだし地味目。 神輿の前にいろんなのが練り歩いていくんだけど、少女の神官が可愛いの以外は見過ごしちゃっても、まっ、いいか、ぐらいに思っちゃう感じ。 少女の神官、愛知の小牧の「おんだ祭り」みたいに、木彫りのチンポを抱えていると、もっといいんだけどね。
 そんなこんなで、行列は約1時間ぐらいかけて、川崎大師の近くまで練り歩いてまた戻ってくるんだけど、最近ここでも気になったことが一つ。 以前、神輿を追いかけながらふとある人家の2階を見上げたら、ガラス窓の向こうから物凄い形相をして睨んでいたそこの家の奥さんだか女性がいた。 世の中、どうしてもこういう方、いらっしゃると思うんだけど...。 特に明治以降、西洋文化、キリスト教文化が入ってきちゃってからは...。
 って、気になったのはそんなことじゃない。 実はエリザベスの女装っ子さん達のことなんだけど、以前より元気がなくなっちゃったような気がして。 気のせいかもしれないし、先日、エリザベスに電話した時、その旨伝えたらそんなことはないって言っていたから取り越し苦労ならいいんだけど...。
 とにかくカメラを向けた観衆、追っかけが多くなりすぎた。 だから、エリザベスの女装っ子さん自体は変わらないのに、まわりがゴチャつき過ぎ・喧騒過ぎて圧倒され、 エリザベスさんの方が少しおとなしく見えてしまったということは考えられる。 それならいいんだけど...。
 でもね、女装趣味があるっての、だいたいは秘密にしてるはずでしょ。 前に、別のハッテン場に取材させてもらったことがあるんだけど、立派な紳士が店を後にしていったと思ったら、そこの店主が教えてくれた。 「さっきまで女装していたあの人、銀行の支店長さんだよ」。 そう、女装趣味のある人ってけっこう社会的ステータスの高い人とか多いんだよね。 高くないまでもキチンとした社会人が多い。 だとしたら、当然そうした趣味は秘密で、バレるとやばいと思っているはず。 まして女装趣味といっても、普段は男やってるわけだから、にわか女装でそれほど変身してないじゃんってな下手な人もいるし、 知ってる人が見ればそれが誰なのか特定出来ちゃうはず。 それなのにだよ、神輿担いでいる彼女達をみんなバンバン写真に撮っちゃってネットで流したりしてるんだから、やばいよ。 バレちゃうじゃん。 そう思えば、神輿担ぐのやめとこうってな人、これからどんどん出てきちゃうかも知れないじゃない。 そしたら、エリザベスの神輿、成り立たなくなっちゃったりして...。 気になったというのは、私が心配する筋ではないかも知れないけどそのことです。

 さて、余計なこと書いちゃったような気がするけど、祭に戻りましょう。 と言っても、後は神輿が戻ってくるだけです。 華やかな桜と神輿と大観衆、後は祭の後も余韻に浸るか、どこで帰るか...。 境内ではその後、バンドなんか出たりして歌とかいろいろまだあるようですけど、私はいつもそこまではいないので、報告はこの辺で失礼させていただくことにします。
 それと、序に言えばこれも出たことがなかったので、あえて省きました。 かなまら祭には「前夜祭」もあるそうです。 もちろん、境内での前夜祭もあるとは宮司さんから聞いて知っていましたが、もしかして東京は鶯谷の方の某会館で、 女装っ子さんたち主催で勝手に前夜祭で盛り上がっているとかの話を聞いたことがあるような気がします。 でも、それはまた別の機会に。

[追]

平成23年は震災直後で、かなまら祭も境内での祭礼等は行われたものの、神輿を繰出す面掛行列や各業者の出店・チン列などは自粛したとのことです。
 明けて平成24年、祭りは従来の形に戻って再開されましたが、さらに人出は殺人的と言ってもいいほど凄まじくなっていました。 記念撮影の背景にされたりしていた待機中の神輿3基は、その混雑を予測してか、いつもの拝殿近くから境内の入り口の方に待機場所を移動させたみたいですが、 とてもとてもそんなもんだけじゃ焼け石に水、ほんと身動きも取れないような混雑振りでした。
なお、桜の方は例年より寒い日が続いたせいで開花前、時間も面掛行列なんか混雑を配慮してか、11時50分には出発(アナウンスあり)とあいなりました。

 それともう一つ、田中雅一著『癒しとイヤラシ』によると、1970年代にはテレビ番組「11PM」でも取り上げられたとのことです。

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[注釈]

※1) 堀の内

 多摩川の河口に近い六郷(昔は多摩川の最下流の部分を六郷川とよんでいた)を渡し舟で渡れば川崎宿。 東海道53次の中では、最後に正式に出来た宿場(それまでは52次)。 宿場には飯盛女がいて実質女郎さんのような存在でもあったのだけど、明治に入ってそこが遊郭となる。 実際には遊郭として指定されていたのは、旧宿場町の南半分にあたる南町の方。 北半分は青線地帯で、しかしトルコ(現在のソープランド)地域に指定されてからは、旧赤線の南町よりこの堀の内の方がずっと隆盛を誇るようになる (1978年8月時点で堀の内が68軒、南町が22件)。
豪華トルコの先鞭をつけたのはこの堀の内。泡踊りの発祥もここだ。

※2) 金山神社とかなまら神社

 「金山神社」という名前は全国に散見できますが、これは概ね明治の初期に「かなまら神社」が時の政府から改名を迫られたものです。 「かなまら」の「まら」は、当然「麻羅(まら) = チンポ」。 風紀上よろしくないというわけです。 九重京司さんの著書によると、この頃の栃木県羽黒町の「チンコ八幡」が「鎮国八幡」になども、やはりその頃に神号・社号変更を迫られたものではないかとのことです。  もっとも、金山神社の多くはあまり金属とは関係ないものみたいなんですが、ここ川崎の金山神社は祭神が金山毘古神と金山毘売神であり、金属を神格化したものですからそんなに文句いうほど的外れだったわけではないのかも知れません。 刀鍛冶師が尊奉するフイゴの神であって、火をおこすフイゴのピストン運動が男女の交接を連想させる。 それがいつしか、神前に奉献された金属製の男根が祭神の座について「かなまらさま」と崇められるようになったわけですから、まあ残念は残念ですけどそれほど的外れな命名でもなかったのかも知れません。  川崎製鉄が金属製のチンポ神輿を寄進したりしたのも、頷けるというもの。

 金山神社とは直接関係ありませんが、明治初期頃に政府から規制を受けた祭や性神・陰陽物などを、下川耿史編『性風俗年表』から拾ってみます。

・明治3年 / 神奈川県が風紀上の理由からサイノ神祭りを禁止。

・明治4年 / 神社がすべて国家の支配下に置かれる。この時、神社仏閣に性神を祀るのは見苦しいとして廃棄を命じられ、東京では隅田川に大量の性神が捨てられたため、見物人が殺到。

・明治4年 / 東京・浅草の歳の市の店頭に張形の男根が飾られる。この頃、東京には男根型の金花糖、男根と女陰を象ったセンベイ、ハマグリの貝がらの中に造られた男根や女陰形のアメなどが、子ども相手に売られていた。

・明治5年 / 東京・両国の隅田川で、芸者の商売繁盛のお守り"金精大明神流し"が行われ、土製、木製の男根型が川面に氾濫。

・明治6年 / 倉敷県(現・岡山県)の警察が性神の一掃に乗り出す。同県酒津村には有名な性神があり、男女が瓦製の陰形を持ってお参りすると霊験あらたかというので、昔から参詣人がたえなかった。 警察がこの性神を禁止したところ、村人が奉納された陰形を門前村や生阪村など近くの3つの村に分散し、これまで以上にお参りする人が多くなった。このため警察がこの地方の性神を全部廃棄することにしたもの。

・明治6年 / 路傍の陰陽石などの金精様(性神)の撤去を推進する政府に対して、福島県伊佐須美神社の権宮司が新聞に「金精様は皇統無窮宇宙平安の祈りのしるし」と反対意見を投書。

・明治11年 / 京都・羽賀野村の伝統行事で、神社に陰陽物を飾り、その前で女装の男や男装の女が尻を振り回す「鶺鴒」が巡査に見とがめられ、男女50人が拘束される。

※明治5年、違式ケイ(言へんに土2こ)違条例(今の軽犯罪法みたいなもの)で、いろいろなものっていうか、エロエロなものが取り締まりの対象にされてしまったようです。

※3) 飯盛女

 江戸時代、「飯盛女」(江戸幕府法令では「食売女」)は、庶民の間ではやや蔑まれて「茶立女」「おじやれ」「留女」「出女」「客引き女」「宿場女郎」などと呼ばれていた。 吉原などの遊郭が設置された頃は、彼女達は指定地域以外の風俗を紊乱する取締りの対象でしかなかった。 それが元禄期より享保期にかけて交通量が激増してくると、宿場も次第に繁忙になって多くの旅行者が逗留するようになる。  街道、場所、時代によっていろいろではあるけど、現在の農家が兼業であるのが多いように、旅籠も裏の畑を耕したりとかの兼業がけっこう多かった。 公用の旅行者は大多数が無賃通行だし、楽な商売ではなく、宿財政は赤字だったところがほとんど。 そこで、女郎さん(飯盛女)を置かせてくれ、客は来るはずだし、女からもピン撥ねが出来るってわけで役所に嘆願陳情。 宿役人だって、そのまま見過ごすことも出来ない苦しい立場ではあったのでしょう。  で、それなら飯盛女は2人までOK、でも派手な服装しちゃだめだよとか、いろんな厳しい制限が付いて許可されたりしたわけです。 でも、いつの世もそうだけどそれは建前、例えば安永元年なんかには、幕府は東海道品川3宿に限っては、旅籠や1軒に2人という制限を外して500人までOKとか...、まあ、そういうことです。
 この飯盛女は、明治に入って「貸座敷営業」とかいろいろな展開があって、遊郭その他へと吸収されていきます。

※4) 若宮資料館

 若宮八幡宮は「川崎大師たより」によると、源頼朝が鎌倉攻略の時にこの地に陣を張って勝利し、その御礼に鶴岡八幡宮を分祀した「八幡塚六郷神社」の氏子達が大師河原干拓のために移り住んだ折に御祭神を分祀したのが始まりといわれ、仁徳天皇をお祀りしているとのこと。  この若宮八幡宮の社務所の2階に資料館があるのですが、主に大師の海の海苔業で使用したあらゆる道具・文献が展示されている。 大師の海は、昔は豊かな海の幸を人々に届けていたとのことだ。
 初めて行った時に、宮司さん(その時には、ご主人は亡くされていて、現在の宮司さんである、元学校の先生でもあった奥さんがなっていた)が案内してくれていろいろ説明もしてくれたんだけど、あまりよく見ていなかったしほとんど覚えてもいない。 何せ、その奥にある「性のコレクション」を見せてもらうのが目的だったもんで、気持ちが先走っていたのかも。すみません。

※5) 金山神社資料館

 若宮資料館の奥のある。部屋は多分8〜10畳ぐらいで、広くはない。  ここに奉納された数多くの男根や、ヒンズー教やヨーロッパなどのものを含めた珍しい資料・歓喜仏がなどが集められているってわけなんだけど、いろいろ性の有り様とかが施された土偶とか、そういうものが多かったと思います。 それと性に関する資料・本等と一緒にかなりのアルバムがあって、先代ご自身が各地を回って撮り集めたらしい全国各地の性神の写真や、その他、映画のロケ地での写真(映画にも関係していた)なども見ることが出来ました。 でもね、昔だから紙に現像したものでしょ。 赤茶けちゃったものや破れちゃってるものとかも多くて、おまけに何処で撮ったものとか記述がないんです。 そして最悪なのは、けっこうアルバムから写真が抜き取られた痕跡があること。  大切な資料だし、思い余ってそれ預かって今のうちにパソコンに取り込んで整理しておきましょうかって申し出たんですけど、喜んでくれたのはいいとして、その後忙しくてずっとそのまま。 顔向けできないくらい月日が経ってしまって...。
 でも、それからだいぶ後になってまた中を見せてもらう機会があったんですが(この時は宮司さんの案内ではなく、祭の日に2階に上がって見学。その当時は、祭の日にはお願いしなくても中を一般に開放していたのです。 特に告知していたわけではないので、知ってる人しか見にはこなかったけど。私が中を覗いた時も、ほとんど誰もいなかったと記憶しています)、きれいに整理されていました。 どなたがやったのかは知らないし聞けないけど、ともかくよかったです。

【参考にさせてもらった本など】

◆九重京司『ふるさとの性神〜現代に生き続ける奇習珍祭の集大成』
 (双葉社、昭和51年刊)

◆九重京司『性神』((株)トラベル・メイツ社)

◆松沢呉一『松沢堂の冒険〜鬼と蠅叩き』((株)翔泳社、1995年刊)

◆外山晴彦・「サライ」編集部 編『神社の見方』(小学館、2002年刊)

◆岡田桃子『神社若奥日記』(祥伝社黄金文庫、平成16年刊)

◆宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』(同成社、2000年刊)

◆石川英輔『江戸人と歩く東海道五十三次』(新潮文庫、平成22年刊)
 ※2007年、淡交社刊『ニッポンの旅 江戸達人と歩く東海道』を文庫化したもの

◆広岡敬一『トルコロジー 〜 トルコ風呂専門記者の報告』
 (晩聲社、ヤゲンブラ選書、1978年刊)

◆田中雅一『癒しとイヤラシ』(筑摩書房、2010年刊)
◆下川耿史編『性風俗年表 - 明治編』(河出書房新社、2008年刊)